その事件以来、私たちはどこに行っても、まず最初に「ソイ、ハポネス(私は日本人です)」を連呼した。しかし、日本という国を知らない熱帯雨林のインディオたちも多く、いくら日本人だと叫んでみても、しょせん私たちは隣村からの○○部族扱いであったようである。中南米の旅は、いつも危険と抱き合わせだったのだ。
マヤ・インディオは、その姿格好が私たちに似ているだけでなく、その生活の拠点となる住まいの造りや、集落の構造も似ている。
前回報告したコロニアルスタイル(征服者)の集落は、景観としても一目で、私たち日本の集落との違いを示したのだが、マヤの集落や住居は周囲の自然に馴染んでいて、きわめて日本的(アジア的)に見える。
集落の構造から見ると、個々に住まいが離れて築かれる離散型のタイプと、数十戸、あるいは数百戸単位で比較的集住するタイプ(プエブロ)に分かれる。
離散するタイプは山岳地や農耕地に多く、そこをインディオたちはランチョ(散村)と呼んでいる。私たちが訪れた範囲では、インディオはこのランチョに、農業をして暮らしていることが多かった。
ランチョの住居は、山間の農地や斜面地に、個々の住居が計ったように、適度な距離をおいて建てられている。一般に、母屋と作業場、便所に分かれて建てられる。壁は板壁、屋根は藁葺き、規模も小さく質素な造りが多い。住居の周りは、荒れ地のような農地になっていて、鶏・山羊などの家畜が放し飼いされている。
お互いの住まいを明確に区画する境界は、当然どこかにあるのだろうが、私たちには見えてこない。境界を示すフェンスとかの構築物が、各々の家に築かれていないから、どこからでも各家の様子が見えてしまう。
なんとも開放的に思える造りである。私たちが訪れたグァテマラ高地ポポルブウのランチョでは、その村に近づくだいぶ前から、私たちの様子は村人にわかっていたらしく、どの家を訪れても、どこを歩いても大勢の子供や村人に囲まれる羽目になった。気がついたら、私たちは見張られていたのだ。
どこかに隠れたくても、斜面に距離をおきながら、個々に分棟化して建てられている住居配置では、上下左右から見渡されていて隠れる場所がない。
これこそ、マヤ・インディオたちが到達した究極の防衛方法なのかも知れない。住居や集落の周囲を堅牢な構築物で囲むだけが防衛とは限らない。こうして何も築かない、何も置かない境界造りもあるのだ。
目に見える物理的な仕掛けより、そこに暮らす人々全員の目こそ、何にも替えがたい「防衛の目」になるのだろう。そして、その目は内に向けては、インディオ自らの集団を維持する厳しい”管理の目”ともなっているように思える。