寺院を抜けると、土壁の住居が左右に斜めに現れてくる。道はその土壁の間を曲がりうねりながら、集落の奥へと続いていく。その一方で、途中にいくつも程良い空地を残していっている。道というよりも、集落内に張り巡らされた路地状の広場のようなもので、それ自体が小道でもあり、農作業のための場であり、家畜の遊び場でもあったりする。
その路地状小道の交叉する場が、広場としてもっとも充実した造りとなっている。二〇m×三〇mほどの大きさがあろうか、広場のほぼ中央に石積みの井戸があり、一抱えもある大樹が数本立っている。いくつもの土製の飼葉桶がある。牛が放されているのは、マンディール前や路地状の小道の仕組みとほとんど同じであるが、その木陰と水場を求めて集まる牛の数、人の数はそれらの数倍多く、まるで緑の天蓋の下で繰り広げられる人と動物の交歓の場のようにも見える。
こうした広場が、ティカリの村には七~八個ある。住居は、おおむねこれらの広場に面して四~五戸くらいの棟(クラスター)で建っている。日干しレンガの土壁に、藁や素焼きの瓦を載せ、出入口前に下屋を突き出した(ダルワザと呼び、男の場として利用)形式のものが多い。調べていくうちに、そうした住まいの造りや、結果としての広場を囲むクラスターの表情に、いくつか違いがあることが見えてきた。
極端にいえば、規模も大きく構えもしっかりしたものから、今にも朽ち落ちそうな佇まいの住居まで。インド特有のカースト制度が集落に深く浸透され、その身分を示す序列が住居の外装までに現れているのだ。村の中央部にある広場は、位の高いカーストの住居、集落の周辺部に向かうに従って、低いカーストの住居になっていた。
カースト制度では、生まれながらにしてその身分が決まる。それだけではなく、その人の住む場、位置までも決まってしまっている。ひとたび近代の眼(合理主義)に慣らされたものには、理解しようにもその言葉さえも持ち得ていない。カーストの厳しい戒律、経済的にもけして豊かとはいえない生活。しかし、集落で出会った人々の姿は、気丈で健やかに見えたし、人間関係は密で力強く見えた。
その象徴が緑の天蓋、その木陰の下で繰り広げられる、人と人、人と動物、あらゆるものとの優しさに満ちた交歓であったと思う。
私達はインドを旅する間、こちらが理解できない光景に出会うと、いつの間にかそれを「インド的光景」として処理してきた。これも「インド的光景」であるに違いないが、とりわけ心に深く刻んでいかなければならない光景である、と考えている。