インドの多くの集落は、ヨーロッパ(キリスト圏)の集落のように、中心に教会とか城を持つような、いわば求心的構造はとらない。集落形態として頂点や、一目で了解できるようなまとまりとか極みがない。
ヒンドゥー教の集落であっても、イスラム教の集落であっても、それらの信仰の象徴シンボルである、寺院(マンディール)やモスクの位置は集落の中心よりはむしろ、村の周縁部エッジに、さりげなく築かれている。
住居の造りも、泥を固めた日干しレンガの壁に藁屋根、もしくは素焼きの瓦を載せた程度のものだ。しかも、その多くは軒を低く押さえた平屋建てで、垂直とか水平とかの基準がそこにはみられない。建設途中なのか、壊れているのかさえもわかりにくい。どうみても構築的な建築とは言いがたい、永久に造り続ける未完の住居のような建築が多いのだ。
それらの総体を群むれとして、集落景観として眺めると、それはただ灼土の大地上に土塊が、ダラダラと続くように見え、まことに様にならない。がしかし、樹木がこれらの風景を補完しているのだ。萎えた建築に比べ、樹木は木目細かな枝葉を天空に繁らせ、地上に力強く立っている。まるで精巧に造られた緑の天蓋のようでもある。
集落を訪れると、これらの樹木が未完の住居群や、それらの広場や路地に涼しげな陰を落とす。その陰を求めて、集落内の子供達や動物達が集まってくる。そうした声があっちこっちから聞こえる。赤や黄の鮮やかなサリーをまとった婦女子が集まり、木陰で作業をしている光景などに出逢うと、私達の暑さで犯された脳は、一気に冴えてくるのである。
インドの樹々は、気品に満ちて崇高な塔のようなものである。時にはその大樹は、その天蓋の下に多くの子供達を集めて木陰の青空教室になったりもする。教室は陽の動き、陰の動きとともに移動する。午前中から午後へと、子供達は木をほぼ半周すると、一日の授業が終わるのだ。私達も、そこでやっと濡タオルを口元からはずすことになる。
わたしは大地をみつめながら
瞑想にふけっている夕闇のよう
わたしの前には、果てしない平野がひろがっている
おまえは地平線に独りつっ立ち
わたしの上に枝をひろげている
バァーニャンの木のよう
わたしの物言わぬ心は
おまえの緑の涼しい感触にうっとりとし
太陽も、月も、星々をも忘れる
<『タゴール詩選:春の先がけ』より>