建築計画研究所 都市梱包工房

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第8話 北山杉

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日本建築のわび、さびを支える森林と黄金の磨き丸太

 まだ日本が好景気にあった頃である。といっても、バブル景気ではなく、それ以前の1970年の中頃。私は茶屋建築を学ぼうとして、木場や深川の銘木屋に素材を見に行った。当時そうした材木屋さんは都内にも数多くあって、木造建築を学ぶものにとっては図書館ならぬ、格好の資料室のようなものであった。店主や番頭が何でも教えてくれたのだ。
 床柱を見に、一見の茶屋材銘木店に入った。薄暗い店の奥が床柱のコーナーで、一見、雑木とも見られる材から磨き丸太や絞り丸太まで、きれいに並べ立てかけられていた。材の下に小さく材種と単価が記されている。一本数万から数十万円、数百万円のものもある。そのうち数千万円という単価の床柱が現れた。一瞬目を疑った。何度読んでも桁は変わらない。そこに北山天然絞り丸太と記されていた。その単価は小さな住宅なら一軒建ってしまう値段である。一本数百万円の単価と記された品物の大半も北山杉だった。それ以来、京都北山杉という材、しかも天然絞り丸太なる代物は、私には木材としてよりは黄金の柱のような高価なものとして脳裏に焼き付いていた。
 その輝く黄金の柱を産出する北山を訪ねることができた。雪の降る二月のことである。北山は京都の北の端にある山で、けっして奥山ではない。京の名所、金閣寺や龍安寺からの景観として裏山の続きにあたり、ほんの5~6km先の山となっている。この近接する都との距離が、北山を日本に名高い銘木、北山杉として育んだと考える。生産地(北山)から消費地(京都の町)間で歩いて日帰りできる。事実、江戸時代から明治時代頃まで、薪や丸太を背負って北山の娘さんたちが京の町に売りに出ていたという。これはいままで紹介してきた多くの森林地とは立地的にも、森林の構造的にも全く異なる。京都の町から見たら、奥山森林というより、むしろ里山であろう。京の文化人や公家、権力者たちはその里山から産出された手頃な丸太材を住まいや茶屋に用いてきた。その建築的わび、さびのこだわりといおうか、至高の頂点に立っていたのが、かの千利休や小堀遠州であったのだろう北山はそうした日本建築の深層に深く関わり、その要望に応えるべく、今日まで努力し、研鑽し育林施業を続けてきている。私の見た黄金の床柱(天然絞り丸太)は、その歴史の物象化された一例なのだろう。
 北山林業地は、京都の北区を流れる清龍川に沿った中川、小野郷、大森、杉坂、真弓を中心にした4300haと、鷹ヶ峰、雲ヶ畑、梅ヶ畑、京北町の一部を含む、杉の磨丸太生産を目的とした地域を指す。名の通っているわりには、その森林規模は小さい。標高約200~600m、狭い川と谷筋にそって人家が並び、その裏がすぐ北山杉の山地である。平均気温15°、積雪約20cm、降雨量約600mmは、有名な他の林業地が皆3000mmを超える降雨量を示していることから比べると、けっして林業適地の自然環境とはいえない。データによると、そこに73戸の林業家がおり、その80%近くが20ha以下の小規模森林所有者となっている。小規模森林所有者が多く、それで生計が成り立ったということは、極めて細やかな集約的林業が発達していたということ。さらに育林以外にも商品としての磨丸太製造業も兼ねた林家が多いということでもあるのだ。その特徴を京都北山森林組合組合長の吉田英治さんにうかがった。
 「北山杉は、材積単価で取引しません。材一本一本の単価なのです。だから林家の目標は、いかに外形として美しい一本の丸太を創るか。その一本の丸太を創るために、北山の林業は各家が競って施業努力してきた。その技術は家々の家宝のようなもので、代々受け継がれ、改良されてきたのです」という。話を聞いているうちに、畑で熱心に農作物を作っている姿や、盆栽作りを思い出した。そのように吉田さんにいうと、「その通りです」と答えられた。園芸のようなものだというのだ。北山には平地が少ない。その農業にかける思いを林業にかけたのだ。
 

 

   

 

 

 


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