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第6話 木曽檜

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  木曽檜の外部者による収奪といおうか、権力者による木曽谷の強制統治の始まりである。この歴史が明治まで、いや最近まで続くのだ。
 木曽檜の異常とも思える高価額のイメージや、地元や一般庶民から遊離した材のあり方は、400年たった今日でも、その後遺症を背負っているともいえまいか。秀吉のあとを待ち構えたように木曽谷を直轄領にしたのが徳川家康である。江戸城の築城、武家屋敷、多くの社寺仏閣の建設、秀吉以上の強度伐採が15年間続けられる。家康のあとに木曽を手中にするのは、徳川御三家のひとつでもあった尾張藩で、大量強度伐採は、谷の奥に向かってさらに行われたとみる。秀吉から始まり、家康、尾張藩に至る江戸初期までの100年間の年平均伐採量は、20万~30万㎡にも上る。史実によると、木曽の天然檜の蓄積は3000万㎡ほどといわれていたから、秀吉から始まる100年間で大部分の木曽檜が伐採されたことになる。良木の略奪伐採が行われたのだ。その後尾張藩は、これらの木曽檜復元のために、厳しい森林保護政策をとることになる。“木一本、首一つ”。伐採禁止令は、檜のみならず、檜に似た他の樹木にも及ぶ。椹、?、檜葉、高野槇等の木がそれである。これらの4樹種に檜を加え、木曽五木と呼び、木曽五木は今日でも貴重な天然木材として保護されてきている。伐採禁止令以外にも尾張藩は留山や巣山、明け山の制度をつくり、山林そのものへの入山まで禁止し、檜の保護と天然更新を図ることになる。現在、木曽谷に残る天然檜が、樹齢250~300年のものが多いことは、ちょうどその時期に育った檜であることがわかる。
 さて、木曽谷の檜の保護管理と、収奪は江戸時代で終わるのではなく、明治になっても継続される。長い間藩有林としてあった森林は、官有林(1868~1889年の20年間)となり、その後、天皇財産である御料林(1889~1947年の57年間)となる。そして、昭和22年(1947年)以後、現在はその大部分が国有林となる。私達のとらえる木曽檜とは、これらの国有林の中に生える天然檜をさし、民有林にはほとんど天然の檜は見られない。ちなみに、国有林の面積は9万5820haである。これは木曽谷3町8村の61%の面積にあたる。

神々に捧げる森林、赤沢自然休養林の天然檜

 現在木曽谷で最も天然檜材が残る、上松の赤沢自然休養林を見ることができた。森林を案内してくれたのは、木曽森林管理者業務第一課の小須田啓さんである。上松は、木曽11宿場のほぼ真ん中にあたり、檜の町として江戸時代から栄えた。上松町の森林面積は1万5780ha、町のほぼ94%が森林である。そのうち国有林が69%も占める。木曽谷の中では王滝村(87%)、大桑村(78%)に次いで国有林率が高い。赤沢の国有林は、昭和47年に日本で最初に自然休養林に指定され、昭和57年に第1回全国森林浴大会が開催された場所としても有名である。つまり、わが国の森林浴発祥の地なのだ。そうした歴史もあって、当地を訪れる人々のための休憩所や宿泊施設、森林案内板や木道、木橋等が整備されている。ひと昔前なら入山することさえ厳しかった木曽檜の森に、今日では多くのビジターが入ることができる。国有林も大きく転向期に入ってきているのだ。
 
 

 

   

 

 

 


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