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第6話 木曽檜

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木曽路の深い森林は、木のもたらす歴史の町

 塩尻より奈良井川に沿って上流へと向かう。20kmも走ると左右の山々はだんだん険しさを増す。平地は川や沢伝いに僅かに残るだけ。その平地を取り囲むように、緑の傾斜面を背に家々の屋並と、枝いっぱいの柿の実が赤く映える。木曽の秋は静かに深く、そして美しい。木曽谷は、3町8村、中央アルプス(木曽山脈)と北アルプス(飛騨山脈)の間にある南北80km弱の山と谷の地域である。江戸時代の五街道のひとつでもある中山道は、この木曽谷を通るが、別名木曽路と呼ばれ、難所でもあり、重要な街道でもあった。この木曽谷には、当時11の宿場が置かれていた。その北端が楢川村の贄川の宿、南端が馬籠宿である。人々はこの間を2泊3日で通過したという。当時の道路の起伏や峠のことを想像すれば、その健脚ぶりにただ敬服する。
 木曽谷とひとくくりで私達はいうが、南北に長く、東西にも広がりをもち、標高300~3000m級の山々が幾層にも重なりあうその谷の自然や気候、風土は、多様で複雑だ。一例を挙げれば、奈良井川と木曽川の関係。奈良井川は木曽路北から2番目の奈良井宿のそばを流れ北上し、犀川に入り、そして信濃川と合流して日本海に入る。この木曽谷を流れる2本の大渓流に象徴されるように、木曽には信濃高原から日本海側の気候、風土を示すものと、東海、太平洋の影響を受けたものが混成しあっている。例えば、気候ひとつにしても冬期の厳しい寒さをもたらす内陸、高原型気候と、比較的温暖な東海気候までが含まれるといったように、山ひとつ、谷ひとつ違うと微妙に異なり、それに伴って生活環境も違ってくる。鳥居峠を超え、木曽福島町に入る。この木曽福島町を境に、木曽谷の気候が大きく変わっていくのがわかる。まず、塩尻を越えた辺りから続いていた急斜面地の植生が唐松から檜林に変わっていく。隣町の上松に入ると、ほとんどが檜林の斜面景観となる。そうした植生の変化に呼応するように、谷筋に細長く建つ家々の屋根の材料も、鉄板(カラートタン葺き)屋根から瓦屋根への家並みと変わっていく。木曽福島より以北の気温は平均で10℃以下となる町村が多いのだ。そうした地域では、瓦は使えない。冬期の寒さで屋根の瓦材が割れてしまうという。同じ木曽でも、これほどまでに環境が違う。斜面を覆う植生と集落の屋根の変化はそれを物語っている。ほかにも谷の自然や生活環境の相違を伝えることは数多くあるだろうが、他人者の私達には、気づかないことが多い。気づいたとしても、その意味を理解し、真意をくみ取るまでには時間がかかりそうだ。木曽はそれだけ長い歴史があり、複雑で深い谷ということなのだろう。

木曽檜の利用を巡る、権力者の歴史と木曽五木

 檜の天然分布を見ると、北限は福島県いわき市の赤井岳、南限は屋久島となっている。檜は寒冷地に適した樹種というより、むしろ温暖気候に適した樹木といえる。標高では長野県穂高の2200mが最高地で、気温で見ると、年平均が5~17℃くらいの場所が適地という。現在、天然檜林が残る木曽谷の諸地域は、ほぼこれらの条件を満たしている。したがって、木曽谷には、人々が住み着く以前から広葉樹と混生した多くの檜があったとみられる。
 木曽の森林資源に最初に目をつけたのは、京都の公家たちで、年貢の代わりに木年貢として榑木や土井の檜の木材を納めさせたという。本格的に木曽檜に目をつけ、伐採を行ったのは豊臣秀吉であった。秀吉は天下を取ると、木曽谷を直轄地(1590年)とし、直径で1m以上もある天然檜の大量伐採に入る。当時、すでに奈良や京都の近畿地域、西日本の各地では、優良な天然檜は数少なく、入手が困難になっていったという。秀吉の木曽谷の直轄は、わずか十年であったが、大阪城の築城に始まり、大仏殿、聚楽第、方広寺、伏見城等の建造に木曽檜を大量に使用したのだ。
 

 

   

 

 

 


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