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第4話 吉野杉

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日本全国の多くの林業者が注目し、学んだ吉野の育林方法

 優良樽丸材を得るための吉野独自の育林方法は、1ha当たり1万本を超える密集植えと(現在は8000本前後)、多間伐にある。間伐は16~20年齢ごろからはじめ、40年齢頃までは3~5年に1回、さらに70年齢頃までには7~10年に1回のペースで行う。その後も主伐期に至るまで間伐を繰り返す。例えば、1万本/ha植えられた杉は、80年齢頃までには500~800本/haとなり、150年齢には200本/ha前後になる。樹齢250~280年の杉林を川上村白川渡と高原で見ることができた。目通りで直径1.5m樹高40~50mもある立ち木が、すくと天空に向かって急斜面に並んでいる。上空より射す光の中で神々しいまでの森林景観である。この時点で100本/ha近くにまでなっていた。
 3~4本/坪に植林された苗木は、間伐を繰り返され、250年たって1本当たり30坪の土地を占めることになる。吉野林業のすごさは、これらの間伐年齢ごと、樹径ごとに材を商品化して市場にだしていることである。たとえば、海布丸太と呼ぶ磨き丸太は、樹齢15年前後の間伐材利用丸太である。中でも、この期の最も直円で素性がよい丸太を銭丸太と呼び茶室の垂木などに用いている。霜除丸太は、一般に磨き丸太の中でも、樹齢30年前後のもので、床柱、棟木、飾柱などに使用される。桁丸太は、樹齢40~80年のもので、在来木造住居の軒桁や心柱などに使用される。
 こうした各節における間伐材の商品化、しかも吉野材としてのブランド化を図ることで、吉野林業は主伐期80~100年、時には150年という長伐期サイクルに耐えてきたのだ。
 木材を本当にていねいに扱い、やがて商品化する。そうした木材に対する精神は、吉野の伝統なのであろう。黒滝村の(株)徳田銘木の徳田氏は、1本数十万~数百万はするという天然絞り丸太を背にしながら、「銘木には基準がない、銘木を生むのは人の目であり、扱う人の心である」という。だからこそ、山ほど保管されている一本一本の磨き丸太や絞り丸太を徳田氏一人の目で確認をし、等級を付ける。その仕事は他人には任せられないという。木と立ち向かう人間の真剣勝負だ。林業家が苦労して育てた一本一本の木、その特徴を見極めて正しく評価する人が、吉野にはいるのだ。

吉野森林を完成させた借地林業制度と山守制度

 吉野川上流の森林地帯は、ほとんどが急斜面の山岳地になっていて、農地に適した平坦地は無いに等しい。多くの村民は、林業に生活の礎を求めるが、一度、山林を伐採し、木を売ってしまうと、その後長い間生活に困ってしまう。そうした山林に植林をしてもらえる資本を村外の大和平野や下流の豪商・地主に求めたのだ。つまり、村外の商人や資本家による造林投資であり、山林の借地化である。17世紀の末ごろから行われだしたといわれる。当初は山の所有権は村民が持っており、あくまで立ち木一代を前提にした地上権の譲渡であったらしい。
 借地を行った村民は、村外の遠隔地に住む投資家(山主)の山を管理する権利を任される。管理者は、村の有力者や、直接の山の所有者がなっていた。管理者は山の育林管理だけでなく、山主に変わって職人の手配から資材調達までをもっていたという。この山の管理を“山守”といい、その制度を山守制度と呼ぶ。山守は世襲を建前とする。その報酬は、定額制ではなく、仕事の量に対応した日当。伐採時には立ち木代金の2~5%の成功報酬を山主から得た。したがって、山守は山の木をいかに高価額にするかで報酬が大きく違うことになる。その結果、労働集約型の育林方法を求めることになる。前記した密集・多間伐・長伐期による檜丸太材の育林方法は、生計の場を求める林業労働者にとっても、山守にとってもまたとない施業として発展した。遠隔地に住む投資家にとって、代わりに山を管理し、運営する山守が必要であったし、資本の無い山守にとっても山主は重要であった。
 時代の流れで借地林業制度は資本家に所有権を譲渡することが多くなり、ほとんどなくなっているといわれるが、この山守制度は、今日の吉野林業に永々と生き続けており、吉野の森林を支えている。

 

   

 

 

 


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