建築計画研究所 都市梱包工房

ARCHITECTURE DESIGN & CITY PLANNING OFFICE

 


 

 
第51話  北ロシアの集落 ペチカの家
 


 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
ロシアを含めた北西ヨーロッパの多くの建築は、19世紀までほとんどが木造建築であったらしい。しかもその木造建築も山地では、丸太や角材を横積み井桁に積み上げたいわゆる校倉造であった。
 
木工道具の少なかった時代、立ち木を斧で伐採しその斧のみで建築を築くとなると校倉造り(ログハウス)こそ最適な建築工法であったのだろう。特にロシアではシベリア開発に始まり、広大な未開の森林地北ロシアの開発が注目されるのは17世紀頃からである。その開発に便乗し腕のたしかな大工達が斧一丁を腰に下げ、各地の村から村へと渡り歩き建築を担って行く。そこで築かれて行く建築は手斧一丁での素朴な丸太組建築なのだが、住宅だけに留まらず、教会や役所、学校、橋など、村や町の全ての施設がその校倉造りであったことに驚かされる。
 
それだけ背景に豊かな森林が在ったと言う事なのだろう。確かに南と違い北ロシアには今でも人の進入を拒むような底知れぬ深い森が多いし、民家の多くは校倉住居なのだ。「ロシアの農民は家からスプーンまで何もかも木で造る事ができる」とトルストイは書いている。木材の活用は建築に留まる事なく食器や家具、農機具まで、家中の全てが木に関係しているのだ。
 
いってみれば生まれたての子供の玩具から、墓標やその下の棺桶まで木に結びついた暮らしなのだ。木の文化とはそのような事でもあるののだろう。木の文化を自認してきた日本の今日が白々しく思えてくる景観である。
 
その北ロシアの木造文化を支える代表的な樹木といえば松、樅、やまならし等の針葉樹。まれに楡、白樺、樫等も使われている。校倉の住居の壁材に用いられた主な樹種は松系が多い。
松は乾燥にによって収縮し易い。従って精度良く築かれた住居であっても壁のあっちこっちに隙間ができる。荒縄やコケ等を用い間隙を埋めるのだが、適度な間隙は残る。その隙間が永い冬期の為のロシア特有の多目的暖房ペチカの、煙突変わりになったり、換気の役割もになっていたらしい。
 
手斧で築かれた松丸太の素朴なログハウスとその室内のペチカは、北ロシアの極く一般きな住居景観としてある。それらの住居をロシアでは「イズバー」とよんでいる。そのペチカの暖房効果の為、わざと煙突を造らないイズバーがつい今日まで数多くあったらしい。ロシアならではの話だが、そうした家の室内は暖かいであろうが部屋中に煙りが充満して煤で真っ黒になってしまう。その住居を愛称をこめて「黒いイズバー」と呼ぶのだそうだ。
 
煙突が完備された住居でさえもペチカの部屋は、時には煙りが立ち込めるから壁や天井が煤で薄黒い。私達が訪れた北ロシア、カレリヤ地方の民家ではほとんどペチカは2階に置かれていた。つまり2階が家族の生活の場になっているのである。部屋のほぼ中央にペチカが造られ、居間や食事の場、作業場、各寝室等はそのペチカを中心に配置さる。長いところでペチカはゆうに3mはある。
 
漆喰で白く塗られまるで巨大な置き物のように、ペチカのみが部屋の真ん中で目立っていた。
よく見るとペチカの周辺に衣服がかけられていたり、敷物が置かれたり鍋釜、食器等も置かれている。ここでのペチカは単に暖房だけの役割ではないのである。台所をも兼ねているのだ。さらにペチカは厳冬にはベッドや椅子変わりにもなると言う。漆喰の凹凸や敷物はそのためでもあったのだ。
 
「雪の降る夜は楽しいペチカ‥‥」雪に閉ざされ外にも出れない長い冬、そうした中厳しい自然環境の中で家族が支えあって暮らす。ペチカの周りは子供にとって親や兄弟から楽しい話や、為になる大切な話等が聞ける場でもあった。
 
ある意味でそれは来る春を待つ間の、親から子へ生きる為の様々な事を言い聞かせ場、学び、伝承の場でもあったのだろ。暖の場として、食の場として、休息の場として、子供に取っては楽しみや学びの場としてあったロシア特有の暖房装置ペチカ。それは何よりも身体だけでなく家族の心が通い、暖まる場でもあったのだ。北のロシアの地で、子供の頃覚えた懐かしい歌の意味が理解できた。
 


 
 
 

 
 

   

 

 

 


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