第2話 尾鷲檜
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尾鷲檜のブランドを生み出した力と新しい人づくり、商品づくり
尾鷲森林探訪の中で、森林のもつ社会性の再認識であるとか、環境問題とかにあわせ、必ず関連して出てくるのが木材の値下がりに対する各地各者の嘆きである。
その背景には、国際化や今日の住宅事情が深く関与していることは明白だ。改めて書くまでもないが、ライフスタイルの変化や和風住宅建築離れなど、最近、築かれる、いや購入されると言った方がわかりやすいかもしれないが、そうした住宅の中で和室を何部屋設けるだろうか。和室無しか、せいぜい設けて1~2部屋だろう。
真壁づくりから大壁づくりへ、在来構法から枠組み構法や新構法への流れ、木造建築も、近年、住環境を高める設備や素材に構法を含めた提案が多くなってきている。
重要なのは、開発される新しい構法や輸入される住居に柱が見られないこと、つまり柱が主役となる住居やインテリアが少なくなって、壁主体の住まいづくりに移行していっているということだ。二間続きの和室や3間続きの和室のある家づくりなどは、最近、都心ではまれである。良質な尾鷲檜の柱、特に三方無節材とか、四方無節材などは、悲しいかな、そうした家づくりをイメージして育林され、商品化されるものなのである。
尾鷲檜材の特長は、油脂分に富み、赤みの色が濃いこと。木肌には光沢があり美しいうえに、緻密な年輪の柱材は強靭でもある。このため、江戸時代から火災や震災があるたびに、貴重がられたのだ。
そして大正時代に起こった関東大震災を境に、尾鷲檜は全国的に有名になったという。その震災によって尾鷲檜の芯持ち材の強さが証明されたことと、前記した尾鷲の海運事情により関東に大量の木材を供給した結果である。震災を境にして、尾鷲のヒノキの評価は倍になったと言われる。
しかし、阪神地方を襲った平成の阪神大震災以降、その尾鷲檜材は逆に、それまでの半分以下の信頼割れに入っているというのだ。なぜだろう。あの、災害に強いはずの尾鷲檜が。
要因はいくつかあるが、中でも阪神大震災で、安い日本家屋が倒壊し、新しく築かれた枠組み構法(2×4などの住居を指す)や新構法の木造建築が残ったことが大きく関係している。言い換えると、日本家屋の伝統構法は壊れ、ハウジング・メーカーなどの建築は無事であったとの短絡した評価がなされたのだ。何やら一方的なメディアの判断と情報であったとも言える。
多くを述べることはやめにしよう。重要なのは、震災を境に、日本家屋、在来構法は弱いとした風潮が消費者の間に広まってしまい、それらの建築に、尾鷲材を含めた多くの国産材が使われてきたことであろう。尾鷲に視点を向けるなら、関東大震災でその価値を高め、阪神大震災でその価値を失ったということだ。
当然、これらの問題は、これで終わるわけではない。戦後植林した日本の森林の木々が、それぞれ伐採期を迎え、充実しだした今日、戦いはこれからと言ってよい。それに林業者だけでなく、木材を扱う建築の職人や工務店、設計者、地方行政を含めたつくり手のすべてが、消費者であるエンドユーザーのニーズに応えるべく、新しい木造建築や住まいづくりの構想とその組織化を図らなければならないと、私は考えている。
かつて何もなかった時代に、尾鷲の人々は海を頼りに、海運からの情報を得て、日本にその名を高めた。尾鷲檜材のブランドに、いつまでも固執するのではなく、その材を生かし、人づくりや商品づくりに新しい夢を託してほしいと考える。それには、かつての海運に負けないような、積極的な交流や情報交換を図ること、そのためのラインをつくることが必要になるだろう。